佐田の京石

 宇佐市安心院町佐田には人間の背丈ほどの石を環状に並べた京石と呼ばれるメンヒル(巨石柱・立石)がある。縄文時代の日本のストーンサークルは関東から北海道に多く、縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。

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 佐田の京石は発掘調査がされていないので詳細は解っていないが、縄文晩期~弥生前期のものだろうと推測される。
 日本の 考古学で、縄文遣跡の分布が東日本に片寄つているという謎について「 鬼界カル デラ」の大噴火が大きく関係しているとされている。
「鬼界カルデラ」とは、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラで、過去何度も噴火し、そのなかで7300年前に起こった大きな噴火がある。
噴火規模は1991年6月3日雲仙普賢岳の約1,000倍で、火山灰は九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方まで到達したという
この火砕流および火山灰により、鹿児島県の大隅半島・薩摩半島南部、屋久島に住む縄文人は、絶滅したと考えられています。また、九州の南半分や四国、紀伊半島南側に住む縄文人にも大きな影響を及ぼし、九州及び西日本では、1000年近くも人が住めない状態になったとされている。
鬼界カルデラ噴火が起きる以前には、南九州には縄文人達の最古の理想郷があったのではと考えられている。 そんな中でも、鹿児島湾に面した地域では、近年になって発掘調査が進み、縄文時代早期の「上野原遺跡」や「 加栗山遺跡」 、 さらに古い縄文時代草創期の「掃除山遺跡」など、当時の面影を伝える集落跡が次々と姿を現した。 特に、鹿児島湾北部の「上野原遺跡」では、竪穴住居跡五十二棟が発見され、その縄文理想郷の中心地のような印象も受け る 。
縄文時代といえば東日本という印象が強かったのだが、東日本の縄文文化の繁栄は、 鬼界カルデラ噴火以後の事なので、これによって縄文文化の源流は南九州にあるようだ。
ただ、日本の巨石文化も南九州で発生したかは、今のところ南九州 の縄文早期の遺跡から環状列石や立石遺構が出上したという報告は聞けず、鬼界カルデラ噴火の直撃を受けている地域であることから、未来の発掘調査で新しい発見が出る可能性があるが、日本の巨石文化のルーツは関東以北と暫定するしかない。

縄文時代から江南人(倭人)が列島にやってきて、一部の地域で稲作も行われていたが、縄文時代から弥生時代への大転換は、紀元前5世紀に戦乱を原因とする倭人の渡来数が増え、列島全体に弥生文化が急速に広まったと推測できる。そして徐々に小国家群が成立して弥生時代に入っていった。
これは、紀元前473年に呉王夫差が越王勾践により滅ぼされ、難民が四散していったことに始まる。その後、紀元前334年に越王無彊は楚の威王に敗れ、紀元前223年に楚王負芻(ふすう)は秦始皇帝に敗れることになる。直接、あるいは朝鮮半島経由で列島には波状的に戦争難民が逃れて来た。
縄文人とはまったく異なった顔立ちや身体つきの多くの人々が戦争難民として逃亡してきたわけである。
そしてその倭人によって、造船技術や水田稲作の技術、金属器の文化などが伝えられ、列島全体に拡がり、政治・経済・社会が大きく変貌、人々の生活は大きく変化し、弥生時代へと入っていった。
その後も大陸の戦乱を避けて、楚人や漢人なども加わり、長期的・波状的に渡来人が増えてきた。
そこで、ここでは紀元前六世紀頃が始まりだと仮定し、以後三百年ほどの期間を縄文から弥生ヘの転換期だと考えて話を進めていきたい。その頃、朝鮮半島からの渡来人達は、まず玄海灘沿岸地域へと移り住んで、肥沃な土地で水田稲作を始めて定住した。これらの人々の主な墓制は支石墓だったのだろうし、唐津平野に分布するそれらは、数の上でこそ際立ってはいなくとも、渡来人達が最初に造った支石墓だったのではないか。 それから少しだけ時代が下ると、 佐賀平野では大小いくつもの集落が形成されて、数多くの支石墓が造られることになる。
その中でも、百十人基の支石墓が見つかった丸山遺跡や、四十二基が見つかった礫石( つ ぶていし)遺跡は、支石墓伝来期の代表的な拠点集落である。 これらの遺跡では、朝鮮半島の支石墓とは構造が変化しているようであり、上石の下の理葬施設が大きく二つの構造に分けられ、弥生時代初期の北九州における、人々の死生観や社会の実相が伝わってくる。
まず一つ目の形態は、埋葬施設が石棺になっている支石墓である。 これは佐賀平野でも唐津平野においても、それぞれ一つしか見つかつていないので、どうしても地 域の首長墓だという印象を受けてしまう。今後これらの地域で複数の石棺支石墓が見つかったとしても、それが地域の有力者の墓だというとに変わりはないと思う。次いで二つ目は、壷棺の支石墓なのだが、どうやら壺棺に葬られ た人は、早くして死んだ子供や乳幼児であるようだ 。しかも理葬の方法は、壼棺を斜めに傾けて埋め、その胴部に穴を開けているというのだから、これは縄文人の死生観に極めて似ているといえそうだ。その二つ目は、土壌の支石墓である。
これは地面に穴を掘って底に石を敷いたりした埋葬施設で、多くは成人の墓であるようだ。この形態は数の上で、佐賀平野や唐津平野の支石墓の大部分を占めているから、庶民の墓だということになるのであろうか。
また、これら佐賀平野に定住した人々は、数百年後には小国家のように強力な勢力になった可能性もあるだろう。その勢力の残した足跡が、かの有名な吉野ケ里遺跡なのではないか。なお、島原半島有馬の原山遺跡は、支石墓伝来期の大規模拠点集落であり、遺跡の破壊が進むまでは二百基近い支石墓が存在したという。
終戦後 、北九州の支石墓遺跡は発掘調査が相次いで 、縄文時代末期から弥生時代にかけての貴重な資料が集められた。これらの調査結果の中で特筆すべきことは、伝来期の支石墓遺跡から、縄文終末期の夜臼(ゆうす)式土器と、弥生初期の板付式土器の出土である。
本州から渡ってくる縄文人にとって、豊前小倉は九州の玄関口にあたる。
縄文晩期、豊前に上陸した縄文人は西へのコースをたどる部族と、南に移動する二つの部族に分かれたと想定できる。
当時すでに、小倉から西の玄界灘沿岸地域には朝鮮半島から渡ってきた人々が多く居住しており、西へ進んだ勢力は渡来人と共生し、自らの縄文文化を残しながら、渡来人が伝える稲作や支石墓文化などを受け入れた。
一方、南へと進んだ勢力は、渡来人とは住み分ける道を選び宇佐平野にたどり着いた。渡来人の勢力はまだ宇佐平野迄達しておらず、縄文文化は小倉以南の豊前豊後で繁栄し、縄文の民は巨石遺構を残すことになった。
縄文晩期の巨石文化には環状列石文化と立石(りっせき)文化を継承する部族の二つがあり、また宇佐平野から先の進路には三つの進路があった。
ひとつは東の国東半島を海沿いにたどるコース。二つ目は宇佐平野から宇佐川( 現在の駅館川)などを南ヘ と辿って、安心院盆地へと至る道である。安心院盆地には立石遺構が多く分布し、この土地に残された神話伝承は様々な年代の記憶を伝えているため、立石文化を継承した部族が長く拠点を築いた事は確かであろう。その三つ目は、これら二つの道の間を南下して別府湾沿岸へと至る道である。
この道を南下し、別府湾が見える前に横道を西へと入って行くと、そこには巨大な環状列石が存在する場所がある。そこは環状列石文化を継承した部族の大きな拠点であった。その環状列石は、本州の環状列石に近い要素を幾つも持っており、豊の国の巨石文化第一号とも言うべき、記念碑的な縄文文化の遺産ではないかと考えている。

 宇佐市安心院町佐田には人間の背丈ほどの石を環状に並べた京石と呼ばれるメンヒル(巨石柱・立石)がある。縄文時代の日本のストーンサークルは関東から北海道に多く、縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。

しかし、佐田の京石は発掘調査がされていないので詳細は解っていないが、縄文晩期~弥生前期のものだろうと推測される。
 日本の 考古学で、縄文遣跡の分布が東日本に片寄つているという謎について「 鬼界カル デラ」の大噴火が大きく関係しているとされている。
「鬼界カルデラ」とは、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラで、過去何度も噴火し、そのなかで7300年前に起こった大きな噴火がある。
噴火規模は1991年6月3日雲仙普賢岳の約1,000倍で、火山灰は九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方まで到達したという
この火砕流および火山灰により、鹿児島県の大隅半島・薩摩半島南部、屋久島に住む縄文人は、絶滅したと考えられています。また、九州の南半分や四国、紀伊半島南側に住む縄文人にも大きな影響を及ぼし、九州及び西日本では、1000年近くも人が住めない状態になったとされている。
鬼界カルデラ噴火が起きる以前には、南九州には縄文人達の最古の理想郷があったのではと考えられている。 そんな中でも、鹿児島湾に面した地域では、近年になって発掘調査が進み、縄文時代早期の「上野原遺跡」や「 加栗山遺跡」 、 さらに古い縄文時代草創期の「掃除山遺跡」など、当時の面影を伝える集落跡が次々と姿を現した。 特に、鹿児島湾北部の「上野原遺跡」では、竪穴住居跡五十二棟が発見され、その縄文理想郷の中心地のような印象も受け る 。
縄文時代といえば東日本という印象が強かったのだが、東日本の縄文文化の繁栄は、 鬼界カルデラ噴火以後の事なので、これによって縄文文化の源流は南九州にあるようだ。
ただ、日本の巨石文化も南九州で発生したかは、今のところ南九州 の縄文早期の遺跡から環状列石や立石遺構が出上したという報告は聞けず、鬼界カルデラ噴火の直撃を受けている地域であることから、未来の発掘調査で新しい発見が出る可能性があるが、日本の巨石文化のルーツは関東以北と暫定するしかない。

国指定史跡級と折り紙がつけられた宇佐の豪族居館

宇佐市荒木に所在する小部遺跡は、古墳時代初頭(3世紀末の)から古墳時代前期(3世紀後半)の集落遺跡で、市内北部を流れる黒川左岸の標高8m程度の低位段丘上に形成されています。発見の契機は、昭和40年代の土木工事に伴ってほぼ完全な壺形土器1点(口縁部が上方に立ち、外側には7条の櫛描沈線文が施され、その特徴から、吉備地方の特徴を持つ土器 図1 2004年宇佐地区遺跡群調査報告書1 小部遺跡 宇佐市教育委員会より転載)が出土したことがその発端となりました。その後、大型圃場整備事業や個人住宅建築などにより、昭和57年から平成23年まで計18次わたる発掘調査が実施されました。
これまでの調査では、古墳時代初頭~前期(3世紀~4世紀)の南北約120m、東西約100m、全長200mを超す環溝(環濠)集落で、ほぼ中心部に南北約50m、東西約37mの柵を巡らせた方形の区画施設や竪穴住居などが発見(第14次調査平成9年=1997年)されており、これらの事から小部遺跡には古墳時代前期の豪族居館があったと考えられています。また、遺跡からは、上記の壺型土器含め吉備や近畿地方と言った他の地域で製作されたと思われる外来系の遺物が多数発見されており、海を越えた交流の拠点であったと考えられています。
第19次調査は、当該地区の宅地化計画の申請を受け、遺跡に対する影響等について、宇佐市教育委員会が2019年3月28日から2019年7月12日まで発掘調査を実施しました。
以下、2019年6月30日に開催された小部遺跡第19次現地説明会資料や市内遺跡調査指導委員の田中祐介別府大学教授と武末純一福岡大学教授の所見等より、その要旨を紹介します。
今回の調査では、これまでの調査で検出されていた方形区画(柵)内の西側中央部で柵に並行する形で南北約8メートル、東西約5、6mの高床式の大型掘立柱建物跡が検出されています。建物の穴は約2m間隔に東西4列、南北5列で計約20が並んでおり、建物内部に小型の柱穴が格子条に配されていることから、総柱の高床建物(南北3間、東西4間)が建っていたと考えられるとしています。東西の大型の柱穴は、2段掘りで楕円形状を呈しており、長さが1、5m、~2、3m、幅が0、8m~0、9m柱の直径が約30㎝あり、建物の規模は上記の通り、8m×5、6m以上の非常に大きな建物が建っていたと考えられるとしています。

宇佐市教委提供
発掘当時の小部遺跡


前出の市内遺跡調査指導委員の田中祐介別府大学教授と武末純一福岡大学教授は遺跡の歴史的意義や性格その重要性について以下のような所見を述べられています。「この建物は、内郭の中央一辺に偏って建てられ、その前面は広場とみられることなどから、内郭の中で行われた儀式にかかわる中心施設と推定される。また、この場所で儀式を主催した首長は、駅館川を挟んだ対岸にあって時期が一致する川部・高森古墳群に所在する前方後円墳である赤塚古墳に葬られた(被葬者)の可能性が極めて高い。前方後円墳が出現した古墳時代初期の首長の居宅あるいは儀式の場である『豪族居館』遺跡は、九州に数例あるが、その中で内部の建物まで判明した例は日田市小迫辻遺跡しか無い、小迫辻原遺跡は国指定史跡だが、(中略)対応する前方後円墳(※筆者注:想定される首長としての被葬者)が不明である。したがって小部遺跡は、この時期の『豪族居館』遺跡では大型建物が九州で初めて確認された遺跡となり、同時期の前方後円墳((※筆者注:赤塚古墳、免ガ平古墳の被葬者)との対応関係が具体的に想定できる極めて稀有な性格の遺跡のため、永く保存し将来に残して活用すべきである)としています。
こうした点を踏まえ、高橋宜宏議員は2019年6月17日の市議会一般質問で発掘調査の成果やその歴史的意義に鑑み、専門家の見解を紹介しながら保存の重要性と緊急性を質しました。これに対し、是永宇佐市長は、国指定史跡をめざす考えを明らかにされました
なお、筆者は「古代朝鮮文化を考える会第8号」(1993年12月刊)で「首長(豪族)居館と小迫辻原」と題する拙文で①首長(豪族)居館の概念規定②首長居館の研究史③古墳時代の出現・成立、変遷 構造、属性、機能・役割 ④首長居館の居住者とその古墳の被葬者との関係を論じました。この中でもわずかながら宇佐市の小部遺跡にも言及しました。
さらに筆者は、「古代朝鮮文化を考える会第12号」(1997年12月刊)で「宇佐農耕社会の成立過程の研究」と題する拙文で、古墳時代前期の小部遺跡は当時の調査で一辺48mの豪族居館が出現し、川部・高森古墳群の被葬者との関連が注目されると述べました。併せて小部遺跡から宇佐で唯一、当時の貴重品である塩の流通ルートを示唆する古墳時代前期の製塩土器の出土していることも述べました。
これまで豪族居館は全国でかなり多数の発掘例が報告されています。このうち小部遺跡と同時期の豪族居館跡の遺跡は日田市の小迫辻原遺跡、久留米市の市の上東屋敷遺跡等が知られています。遺跡の規模では小部遺跡は約14850㎡を測り、全国の発見例で最も大きい原ノ城遺跡(群馬県)の17,325㎡に次ぐ大きさとなっています。ちなみに3番目が上ノ宮遺跡(10,000㎡、奈良県)4番目が森戸遺跡(8,100㎡ 茨城県)5番目が三ツ寺1遺跡(7,178㎡ 群馬県)の順となっています。ちなみに日田市の小迫辻原遺跡1号居館は、2,209㎡と推定されます。
最後に、小部遺跡の今後の科学的で全面的な調査・研究で宇佐における古墳時代前期の歴史像(首長の成立過程や被葬者との関連とともに、民衆の暮らしの実態など)の解明の進展を切望するとともに、早急に国史跡指定化を実現させ「文化財は国民の宝」として大事に保存・活用されることを願って結びとします。
なお、執筆に当たり、文化財関係者各位の方々に多大なご指導とご協力、ご教示をいただきましたことを記して厚く御礼申し上げます。2019/11/26日用松 律夫

引用・参考文献
宇佐市教育委員会1998年 宇佐地区遺跡群発掘調査概報のうち小部遺跡(Ⅲ)
宇佐市教育委員会2004年 宇佐地区遺跡群発掘報告書1 小部遺跡 
拙稿 首長居館と小迫辻原遺跡   1993年  
古代朝鮮文化を考える会 第8号
拙稿 宇佐農耕社会成立過程の研究 1997年  古代朝鮮文化を考える会 第12号
泉南市教育委員会 1992年  「第5回歴史の扉を開く泉南シンポ『古代の豪族』

縄文の風へようこそ

 縄文人のリアル死生観や自然観…生き方を律した思想は、縄文以降の歴史に光を当てることで明らかになってきました。縄文は失われた過去でなく、日本人の生を律する思想として脈々と生き続けてきたのです。
縄文の風では、考古学だけにとらわれず、神話や民俗学などを総合し、日本列島でおこったもうひとつの真実を考えていきたいと思っています。

縄文とは約1万5000年前~2300年前頃までの間、人々が狩猟や採集だけで暮らしていた時代というイメージですが、すでに「燻製」「塩漬け」「煮干し」といった、現代とほぼ同じ要領での食料の貯蔵、保存の技術を持っていたということが判明しています。縄文人が、単なる“その日暮らし”をしていたわけではないことで、食生活もかなり豊かだったようです。
また共同体は緩やかな原始共産制のかたちもとられていたようで、多少の貧富や身分の差はありましたが、「階級」と呼べるものはなく、縄文時代は弥生時代に比べて殺傷人骨例の発掘は、パーセンテージで比較すれば圧倒的に少なく、争いごとも少なく精神的にも豊かだったようです。
それでは、わたしたちは、なぜ縄文人を軽視してきたのだろう。
「文字も持たず野蛮だから駆逐された縄文人」「背の高い弥生人、小さな縄文人」と教科書には骨格写真や槍をかまえて狩猟する挿絵が並べられていた。
学校の教科書そのものが、「野蛮」という縄文史観を子供たちに押しつけていたように思えてならない。あれを見れば、縄文人と弥生人は入れ替わったと信じてしまう。
弥生時代は「弥生土器が使用された時代」と考えられていたが、この定義が揺らぎつつあり、弥生土器=遠賀川式土器の出現と共に、弥生時代に稲作が始まったという常識は通用しなくなった。
つまり、縄文土器を使っていたのが縄文時代で、弥生土器を使っていたのが弥生時代と明確に分けて考えことはできない。
技術は伝承され、文化は継続されながら時代に即して変化していくもので、はっきりとした時代区分はできないというのが常識となりつつある。弥生土器のような縄文土器があるかと思えば、縄文の息吹を感じさせる弥生土器もあるように、境界線はじつに曖昧なのだ。