歴史は永遠に答えの出ないミステリーだと誰かが言っていました。
私の歴史好きは周知の事実で、歴史に接している時が至福の時です。
ところが、最近友人の子息が「歴史にはまったく興味が無い。昔の事なんて何の意味も無い」と、話していた。
私も学校で学ぶ歴史の授業は、とてもつまらなかった思い出があり、年代を無理矢理に暗記させられ、歴史の時間はいつもあくびをしていました。
しかし、歴史は年代の丸暗記ではなく、事実に基づく、空想と推理の科学であることを教えられた時、歴史の虜になりました。
特に縄文の時代は好きで、縄文文化は高い精神性と民度をもっていたといわれています。
例えば、縄文人に「結婚」という概念があったかどうか興味があるのですが、これだけで生涯暇を持て余すことはないでしょう。。
さらには、もし恋愛のような感情を推測したりすれば、ミステリーにロマンが加わり、さらに楽しくなります。
宇佐の地は、縄文とはあまり関係はないように思われていますが、縄文の風が香るような巨石群は宇佐市・安心院町にあります。
安心院町佐田の京石というのがあるが、立石遺構であり、隣町の山香町立石には巨大な環状列石があり、大分県にはなぜかこのような巨石遺構が多いのだが、本格的な発掘調査は皆無であるために正しいことは解っていない。以下は私の勝手な推理です。正確性については保証しかねます。
立石の謎を解明するには物的な証拠を含め、資料は皆無といっていい。そこで日本の巨石文化の原点というべき、信州や飛騨地方に遺された遺構と比較し、その遺跡に構造がより酷似しているものが、大分県の巨石文化の原点となったと考え、縄文遺跡に酷似するとされる巨石遺構資料を探した。
比較検討した資料や過程は割愛するが、それによれば環状列石は山香町立石、立石遺構は宇佐市安心院町佐田の京石ではないかと比定できる。
古代の人々にとっても、本州から渡ってくる場合には、現代の小倉と中津が九州の玄関口だったのだろう。
東北の縄文人たちは何らかの理由で西を目指しそこへ定住を始めた。また渡来人たちは壱岐・対馬を経て隠岐諸島から出雲へ、出雲から近畿・東海地方へと、長い時間をかけ、縄文人たちとの共存の中で融合を重ねながら定着していったのではないだろうか。さらに勢力を拡大した部族は何らかの理由から九州へ移住したと考えても面白い。
九州への上陸は本州からなら、島伝いに瀬戸内を通るルートを使えば小倉へ上陸し、そこで東へ進む勢力と、南へ進む勢力の二つに分かれたのではないだろうか。また、小倉ではなく豊前に上陸した勢力もあり、豊前コースを選んだ勢力は南進を続ける勢力と、宇佐に留まる勢力に別れ、中には関東から四国の太平洋側のコースで、直接日向・日南へ向かう勢力もあったであろう。これを「日向族」と仮名する。
一方、玄界灘沿岸地域では、そのころには壱岐・対馬を経由してやってきた、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでいた、小倉へ上陸した勢力は渡来人と共生を選び、出雲文化、新羅文化を取り入れながら、渡来系の石組文化を残した。そして当時は渡来人の勢力もまだ宇佐平野までは及んでおらず、後の世でも宇佐に上陸した勢力は、渡来人との住み分けを選んだ。
一方で小倉上陸の縄文人勢力は、縄文文化をそのまま残し反映しながら、当時の先端技術、北九州の朝鮮文化を吸収し、採鉱や冶金を身に着け、また航海術を学ぶことで大きく勢力を伸ばした結果、縄文人の巨石遺構は豊前・豊後に多く残すこととなる。これを「ヤマト族」と仮名する。
南九州には熊襲・隼人と呼ばれる縄文系の人々が住んでいた。独自の文化を持ち、沖縄などを通じ大陸との交易もあったと考えられている。
熊襲は大和朝廷への服従前の呼称で、隼人は服従後の呼称とされている。「畿内隼人」と呼ばれたこれらの隼人は、まだ本州迄勢力のあったアイヌなどからの警護に当たっていた。これら熊襲・隼人を「熊襲族」と仮名する。
南九州には、依然として大和朝廷に服従しない熊襲もいて、小競り合いが続いていた。
更に、豊前まで進出してきた小倉上陸組みの大和族と交流を重ねながら、後に大和政権の庇護のもと、現在の宇佐文化の躯体をなす八幡宮が造られていった。